「俺は知ってるぜ」

前に進むだけで精一杯

あれから6年

3/11は、友達の結婚式に参列するためいろいろ書けないので、今のうちに。

 

震災から6年です。

 

私は、いろんな人に

あの日、なにしてた?

とよく聞きます。聞くようにしています。

忘れたくないので。忘れない方がいいと思うので。

 

あのときの「異常」な空気感を

悲しい気持ちや恐ろしいくらいの不安な気持ちを

私は忘れたくない。

 

 

あの日のことを書きます。

嫌な人はここでおしまいにしてね。

そして信じられないほど長いです!苦笑

 

 

 

 

 

 

当時、私は都内で仕事をしていました。

新卒社会人1年目。

2階建ての、小さな事務所のようなところで仕事をしていた。

本社は八丁堀でしたが、私は配属先が支店のようなところで、八丁堀までは2時間近くかけて通わなきゃいけなかったのだけれど

私はたまたま、本社配属ではありませんでした。

八丁堀に行くより、30分は自宅に近いところで仕事をしていました。

それが、今思えばラッキーなことだったなと思います。

 

私は毎日15時前くらいになると必ず作る資料がありました。ルーティンワークです。

ひたすらパソコンに向かって打ち込む作業だったのですが、画面を見ていたらその画面がゆっくりと揺れました。

もともと目眩を起こすタイプだったので

パソコンの見過ぎかな?疲れてるのかな?

と、特段気にすることもなくその作業にまた戻ろうとしました。

 

すると、誰かが

地震じゃない?

と言った時にはもう、普通にしていられない揺れが起こったのです。

 

人は、本当にマズイと思うと机の下に逃げるものなんだなとその時知りました。

揺れは、長かったような、短かったような。

ただとにかく轟音とともに揺れていた。

誰も何も言わなかった気がします。

恐怖で何も言えなかったのかも知れない。

ただガタガタという音と揺れに耐えました。

 

とんでもないことが起きたと思いました。

そこにいた人たち皆一様に青ざめた顔をしていました。

 

その少しあと、また、大きな揺れが。

 

その揺れの中、机の下で私は夫に(当時はまだ結婚していませんでしたが)

怖い

とだけメールをしましたが、あのメールはいつ彼の元に届いたんだろう。

 

何度か大きめの余震が続いて、私たちは外に出ました。

電柱や、電線が揺れていて

でも、空は晴れていてわりと穏やかな気温だったと思う。

そのギャップがなんだか気持ち悪かった。

自然災害が起こるときは、なんとなく、イメージとして悪い天気のときになんじゃないかというバカみたいな発想があったので。

晴れてるなあ、と。いいお天気なのになあと思ったりしました。

 

職場から、最寄り駅が見えます。

先輩が、

電車止まったな

と、言いました。電車が全く動いていなかったから。

 

上司が何人か、近くのスーパーで食料品を調達してくれました。

ほんとうに機転の利く、素敵な上司だったな。

帰れないと見越しての行動でした。

 

職場には、商材の大型テレビが何台か保管されていました。

技術者の方が、そのテレビを2台、見られるようにすぐにセッティングしてくれました。

本当にありがたかった。情報がすぐに得られた。

 

そのテレビから映し出された映像は、

あの、津波が襲う東北の街の様子でした。

 

黒い海だった。黒い波だった。

 

 

あ、人がいる

車が飲み込まれる

あの人、間に合わないかも

 

 

隣にいた先輩が

映画みたい

と、呟いた。私も本当に、そうだと思いました。

信じられなさすぎて、現実味がなくて

不謹慎なことは承知で書きますが、映画のようでした。

 

刻一刻と変化するその津波の様子を

ただただ眺めていた。

この世で起きてることなのかな?

悪い夢かな?と思って見ていました。

 

手が震えて、仕事どろこじゃなかったけど

揺れたのは一部の地域で

全国に支店を構えていたあの会社で

仕事をしないわけにはいかなかった。

でも、揺れた直後に名古屋支店の人から能天気な電話がかかってきて、

正直イライラしてしまったりして。

思わず、そちら揺れませんでしたか?と聞いてしまった。

揺れなかったんだって。そりゃ、知らないんだから電話くらいかけるよね。。

 

配送してるおじさんが戻ってきて、

車にいても揺れがわかったと言っていました。

今日の物流は無理なんじゃないかなあと言っていて、あとあと聞いたらエレベーターが止まってしまっただの、道が動かないだの、大変だったようです。

 

それから、電話も繋がりにくくなって。

 

本社から、帰宅できる人はしてオッケーの通達が出ました。

でも、歩いて帰れる人なんてほんの一握りで。

電車で1時間以上かけて通っていた私は会社にとどまりました。というか、そうするしかなかった。

何人かの人は帰りました。

 

服を着替えて、とりあえず会社の電話を使って母親に連絡をしました。

家も自分も無事。飼い犬と過ごすから心配はいらない。電車が動いたら帰っておいで

と言われました。

そう、そのときには電車は全く動いていませんでした。

 

夫にも電話をしました。携帯宛では繋がらないので、会社の電話から、夫の会社に電話をしました。直通番号を知っていて本当に良かった。

すんなり繋がって、話ができた。

 

あのとき、夫は風邪をひいていて、できれば家に帰りたいと言うので、私は夫と合流して当時住んでいた夫のアパートに帰ることにしました。いつか電車が動くことを祈って。

 

私たちは電車で10分程度離れたところで仕事をしていました。

ある駅で合流することにして、会社を出ました。おそらく時間は19時過ぎだったかな。

彼は昔、その近辺に住んでいたことがあって土地勘があったので良かった。

先輩が、途中まで車で送ってくれて本当に助かった。

 大きい通りはもう渋滞が起こっていて、たくさん歩いている人がいて、異様な光景でした。

 

私たちは、あの通信が不安定ななかで、すんなりと合流することができました。

もう電車は絶望的かも、と思いその近辺にあるホテルをあたったけど、みんな考えることは同じで、どこも取れる状態じゃなかった。

 

仕方がない、ご飯を食べようと、とある沖縄料理屋さんに入りました。

あの、あたたかい光はなんというか、本当に優しい光だったなあ。

ご飯を待っているときも食べている時も揺れた。

でも私たちはあたたかい、できたての、美味しいご飯を食べることができました。

不思議な気持ちだったけど。

こんな状況でも、ご飯が出てくるんだもの。

営業してくれたお店の人にとっても感謝しました。

 

そのお店でTwitterをチェックしていたら、とある路線が運行を始めるとの情報が。

私たちはターミナル駅へ向かいました。歩いて行ける距離だったしね。

お店の人は、ご飯を食べにきていたお客さんに自転車を貸してあげていた。

優しい、素敵な光景だなって思ったものです。

 

Twitterの情報通り、電車は動いていた。

あまり知っている人がいなかったのか、ピークは過ぎたのか、そんなに混んでいませんでした。

 

私たちはアパートの最寄り駅で降りると、タクシー列がすごいんじゃないかと予測して(大きな駅だったので)手前の駅で降りました。

 

そこそこ並んではいたけど、30分ほど待って、タクシーに乗れた。

大きな道はすごい混雑なんです。すこし入り組んだ道を走りますが大丈夫ですか?

と、運転手さんが聞いてくださって。

多分多少は遠回りもしたんだろうけど すごい速さで家に着くことができました。

いい運転手さんだった。

 

家の状況が怖かったけど、案外大丈夫だった。

 

確か家に着いたのが25時くらいだったかなあ。

私たちはあたたかいお風呂にも入れて、お布団で寝ることができました。

それだけでも、ありがたいことです。

 

テレビのあるリビングに布団を敷いて寝ました。

夜中じゅう、ずっと、ずーーーっと緊急地震速報のサイレンが鳴っていた。

その音が鳴るたび怖くてあんまり寝られませんでした。

朝方、夫は仕事関連の電話をずっとしていて、私は外の明るさと、夫が起きていることの安心感でやっとすこし寝ることができました。

 

 

テレビをつけても信じられないような映像が流れていて

ずっと揺れてて

精神的に本当に疲弊しました。

それは、多くの人がそうだったのでは、と思います。

 

地震が起こった日は金曜日だったので

翌日は夕方までアパートで過ごして、この揺れの中夫をひとり残して帰るのもなあとすこし申し訳なかったけど私は自宅に帰りました。

 

父も兄も夕方まで家には帰ってこられなかった。

兄は仕事で接待ゴルフをしていて、とある街の避難所で一夜を過ごして

父は会社に泊まったと言っていました。

母は地震が起きた時、犬の散歩から帰ってきたところで、庭にいても揺れたのがわかったと。

 

自宅に帰ってからどう過ごしたのかよく覚えてない。とにかくその3/11の出来事はよく覚えているのだけれど。

 

 

これが、わたしの、3/11の出来事です。

 

それぞれの思いや出来事があったと思います。

 

去年、私は被災地を何箇所か回りました。

被災するって、本当にたくさんのものを失うことだなって思った。

そこにあったものが、根こそぎなくなって。

人も、想いも。

でも、復興に向けて頑張っている人々の姿ほど尊いものはないよなあって。

それでも、人間は生きていけるのだもの。

 

何もなくなっても、また、始められる。

 

始められないところも、もちろんありますが。

少しでも、良い方向に向いますようにと、願っています。

また、被災地を巡りたいな。